結局

社会は、
つめこんでない人が欲しいんでしょ。

余力のある人。


そのために大学入試を変えたいんだと思っている。

だから、脳のキャパをマックス使い切ってる人はお断りってことなんじゃないかな?って。

幼少期にどれだけキャパを広くしておくか。
その後にそこにうまく詰め込まないか。
大学の勉強が入る、社会に出た時に上司の助言が入り込むスペース、これからの社会を見通す想像をできるクリアランスが欲しいってことなんじゃないかな?

ゆとり教育にしても、それが目標だったんじゃないかな。でも結局、入試が変わらないと、ゆとりもやってられないってことで。

日に日に、ゆとりの捉え方を間違えていったんだよね。きっと。
スタートは今と同じで、話し合いが進むにつれて、振るベクトルが変わってきちゃって。

幼少期からディスカッションが大切ってことだ。
問題を解決するために、どんな可能性があるか、幼稚園から話し合いをさせることが一番大切なんだと思う。
会話もなく、子どもだけで、取り合って喧嘩して、泣き止んだら終了。じゃなくて、どうして泣いたのか?その時相手はどう思ったのか?そういうところを大人がうまく介入して、小さな頃から突き詰めて考える練習。これがあれば、イジメも少しは緩和すると思う。
イジメられる方も、自分のものさしだけで社会にでて、常にイジメられる、ことも減るんじゃないかな。この時私はこう思っていたけど、相手はこう思っていたんだっていう客観的な視点に気づく練習をしていれば同じことを繰り返さない。



人間関係に公式を作って、

一問一答の社会、

ないからね。



でも本物の天才は、自分のものさししか持ってないけど、笑。
私が今まで出会った、本物の天才って、そういう人間関係でトラブルこともないんだよ。自分のものさしで生きて行く人って認められるくらいの魅力があるから。
そことの区別がつかず、自分は天才肌って思いながら、そこまでの天才じゃない場合に、自分のものさしを振りかざすと、トラブルしか起きないんだよね。





うわぁ、偉そうな言葉の数々、
と読み返して、自己嫌悪。
子育てしていると、自分の信念みたいなものを常に問われている感じがして。
主婦が政治家みたいにみえるのは、こういう原因があるんだと思う。